Print this page

人肌エッセイ その(一)

風呂屋の向かい


 下足・番台・壁面鏡・玉子シャンプー・竹の篭・カラン・富士山・大扇風機。
 「銭湯」という、あの特別な空間にしか無かった様々な物達。それらは私の子供の頃の記憶と深く関わっている。

 東京タワーと同級生の私は、都内中野区の神田川沿いで二十二歳まで暮らしていたが、自宅には風呂場が無かった。
一戸建ての敷地には庭や別棟なども在り、風呂場が造れないほど狭いわけではなかったが、斜向かいが銭湯だった為、家の大人達は風呂場を造る必要性を全く感じていなかった。従って我が家は一家全員、毎日銭湯に垢を落としに行く。あまりの近さに、雨の日でも傘は要らなかった。

 そのころの子供達は、下着やパジャマのまま風呂屋にドシドシ駆け込んでいく。アトムやウルトラマンが始まる時間にはサッと姿を消す。
そう言えばTVの時間帯と風呂屋の混み具合には、大いなる因果関係があって、女湯は流行りのドラマ系TV(『君の名は』とか『東芝日曜劇場』等)に、男湯はスポーツ系TV(『巨人阪神戦』や『プロレス』『ボクシング』等)が放送されている時間帯は、やけに空いていた。
その為か?どうかは知らないが、銭湯の時計はやけに大きかった。銭湯派の子供達は皆、あの大時計で時刻の読み方を知ったものだ。

 他にも、銭湯に有る物は何でも皆大きかった。
扇風機は直径一メートルはゆうに有ったろうし、壁面いっぱいの大鏡は、当時銭湯以外ではそうそうお目に掛かれる代物ではなかった。
全身足まで映る大鏡の前で、脱いだり着たりしながら、自分自身と睨めっこしたり友達や近所のおばさん達と喋ったり、果ては歌ったり踊ったり。銭湯派の子供達は皆んな、一度はあの大鏡の前で裸で踊ったことがあるはずだ。
覚えたてのマンガの歌など口の中でブツブツ呟きながら、クルッと回ってみたり…。何故あんなにあの場所でウキウキした気分になったのか、それは今でも分からないが、男の子は仮面ライダーに変身し、女の子は秘密のアッコちゃんに成る。何とも天真爛漫と言うか自由奔放な創造性をモクモクと沸き立たせるには最適なスチェーションが、あの大鏡の前にはあった。
物心ついてからは、さすがに私も踊ることはしなくなったが、日々、しげしげと自分の裸体を観察することに余年はなかった。みごと、銭湯派ナルシスの完成である。

 かぐや姫の「神田川」が流行り出した頃、私には、あの歌詞の中に重大な疑問点があった。それは「いつも~私が~待ァたァされた~」という一節である。
何故、男よりも女が早く風呂から上がって、ましてや冷たくなるほど外で待たねばならないのか、ということである。

 「オーイ、上がるよー」
 「ハーイ」
なんて男湯と女湯で声を掛け合うことは、当時の銭湯では日常茶飯事だった。誰も恥ずかしいなんて思わなかったし、かえって微笑ましくも機能的な方法だった。
この声を合図に、母親に洗ってもらっていた子供は一目散に男湯に駆けて行く。先に上がった父親に何かおねだりする気なのだ。因みに私は、コーヒー牛乳やマスカットジュースが好きでしたね。
母親の方はやっと子供の面倒から解放され、ゆっくりと湯舟に漬かりに行く。なんという夫婦愛、親子の連携。内風呂には無い優雅な銭湯の光景である。

 例の「神田川」の件に戻るが、確かにあれは夫婦ではないという設定だから無論こんなことは出来ないだろうが、銭湯の脱衣場はかなり遊べる空間である。冬は暖房、夏は大型扇風機。週刊誌に肩もみ機、マンガにぶら下がり健康機、のどが渇いたら各種ジュースやアイスクリーム、果てはコインランドリーに至るまでいろいろ完備していて、たとえ男が長湯だったとしても、冷たくなるほど外で待つ必要は無いのである。
もし待っていたとしたら、それは是見よがしの嫌がらせである。その上「洗い髪が芯まで冷えて」というから、これに至ってはもう最高級の当てつけである。
女湯の脱衣場には必ず、美容院と同じ型の椅子付きのヘアードライヤーが有った。十円で三分乾かせばどんな長髪でもほぼ完全に乾く。あぁ、何という事だろう…。もっとも現実をそのまま歌にしてしまっては、これこそ無味乾燥、だよね。

 最近は風呂屋の下足を真似て、靴を脱いで入るファミレスなども出てきたが、あの下足こそ、日本の特異文化の一つだろうと思う。
昭和三十年代~四十年代の前半、いわゆる昭和の銭湯最盛期(これ以後、町場の銭湯は衰退の一途を辿る)には、あの下足に入りきれない下駄やサンダルが、風呂屋の上がりがまちに所狭しと散乱し、正にその山々を踏み分けて入ったものである。そんな時は、小さな下足入れの中にも、親子三人くらいの下履きが詰め込まれていた。
風呂屋が近かった我が家では、風呂の混み具合をこの下足の散乱状態で見極めていた。子供だった私は「下足あらため」の役回りを日々仰せつかっていた。

 「どうだった?」
 「ダメダメ、いっぱい」
 「そうかい、じゃァもう少し後にしよう」
なんて具合だった。

 もっと御幼少のみぎり(二~三才の頃)には、あの下足札をしゃぶって、よく母親に怒られたらしいが、もちろんそんなことはもう全く記憶にない。鮮烈に覚えているのは、オッサンの入れ墨だ。

 私は小学二年生ぐらいまで、父と男湯に入っていた。その頃はまだ入れ墨のオッサンがウヨウヨ居て、実に男湯は男の世界だった。子供心にも、あまりジロジロ見てはいけないと思いながら、だけどやっぱりジロジロ見ていたと思う。
若いおじさんのそれは、ツヤツヤとして張りがあり、とても美しいと思った。それに引きかえ「昔はさぞや」と思われるお爺さんの、今は痩せて皺だらけになった背中で色褪せた牡丹や唐獅子。その哀愁に満ちた青黒い皮膚は、幼少の私にさえ、人生の何たるかを教えてくれていた。

 そんな私に、いきなり終止符が来た。たしか小学二年生の夏だったと思うが、実に唐突に、男湯の男達の一物が妙に気になり出して、目のやり場に困るようになった。
いつものように父親が、
 「リカコ、行こうか」
 「ううん、行かない。ママと行く」
という訳で、それ以来、もう父親と男湯に行くことはなくなった。実に我ながら今でも説明のつかない、曰く言い難い唐突な心境の変化だった。

 とにかく、人の肌と肌がお互いの眼前に晒されるという特異な環境である銭湯は、様々な体験と共に、私の成長過程に多大なる影響を与え、培ってくれていたのだろう。

 平成二年、家の向かいに有ったその銭湯は、文字通りバブルと共に泡と消え、五階建てのマンションとなった。
仕方なく両親は台所を改造し、今はユニットバスのお世話になっている。私も時々温泉などに行くと昔の銭湯を思い出すが、隣近所、顔見知りのおばちゃんや学校の友達など、気心の知れ合った人々と一日の終わりを共有する、そんな湯舟はまた格別のものだった。

高齢者も赤ん坊もない、みんな身一つで生きている生命なのだから、それだからこそ、包み隠せぬものが肌から肌へと伝わって来る。
近所のおばさんは頼みもしないのに、ゴシゴシと遠慮無く背中を流してくれる。
番台のおじさんは「リカちゃん大きくなったね」などと声を掛けてくれる。
何が大きくなったかというと、それはもう全身そのものなのだから、何とも言外の余情に余りある。しかし、そんなおせっかいな人肌の温もりが、お互いの健康を気遣い、今日一日の無事を喜び合える時間と空間を作り出していたのだ。今となっては残念ながら、私の回りにもうそれはない。
 とりあえず、日々無くてはならない生活の場、それが私にとっての「銭湯」だった。

                            ( End )


これは発表後、実に長きに渡り好評を得たエッセイ。

十年以上も前の作品だが、どうしてまだまだみずみずしく読めるよねぇ。

東京の銭湯はどこもこんなぐあいに、なかなかいい味だしていた。

そういえば、六年程前、ここ東中野に引っ越して来た時も

私の家の隣は風呂屋だった。


夏は開け放した窓から石鹸のいい匂いがしてきた。

夜更けにはカランを掃除する桶の音がせわしく響き、

冬の寒い晩には、風呂屋の屋根からほかほかと白い湯気が立ち上る。

あたたかい人肌の香りは、向こう三軒両隣りをほんのり包み込んでいた。

だが、その後一年半ほどで廃業。建物は解体され駐車場となった。


余談が長くなったが、その解体工事の時、

窓から実に貴重な風景を拝ませていただいたことがある。

建物はすっかり解体されてしまっているのに、例のあの・・・

銭湯のトレードマークのようになっている富士山の一枚大壁絵、

あれだけが、一週間ほど放置され、そのままの姿で、主の居なくなった敷地に

揚々とその雄姿を晒していたのだ。

なんとも曰く言い難い光景では有った……

それはまるで、第二次世界大戦中、奇跡的に焼け残った「最後の晩餐」のように……

りかこ